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自分の最大限の可能性を開花させる力学

感情の発信源は実は自分ではない(感情が教えてくれる使命よりも理性に従うことは逆にエゴかもしれない)

感情の発信源が実は自分ではないことに気づくと、人生の見方が一変します。

なぜ感情の発信源が自分ではないのか。

それは感情というのが自分で「湧かせるもの」ではなく、勝手に「湧いてくるもの」だからです。自分という人間は、その勝手に湧いてくる感情に反応しているに過ぎません。

では、感情の発信源とは一体誰なのか。実はそれが私たちが「霊」とか「魂」とか「神」と呼んでいるものであり、自分を超えた「大いなる存在」なのです。

私たちは、どんなに一人で生きているように見えても、実は一人で生きているわけではありません。物理的に一緒にいる人が仮にいなくても、自分の内側に入っていけば、たくさんの大いなる存在に支えられていることに気づきます。

実は自分の人生というのは、「目に見える自分」と「目に見えない大いなる存在」とがチームを組んで新しいものを「創造」しているというのが本来の姿です。

そして、その「目に見えない大いなる存在」が「目に見える自分」にコミュニケートを取る手段というのが「感情」なのです。人は理性よりも感情の生き物とされる理由はここにあるのです。

もちろん、全ての感情に反応し従わないといけないわけではありません。全ての感情にはメッセージとしての意味はありますが、その全てに反応してしまうと人間は破綻してしまいます。感情は反応するものではなく、コントロールするものだからです。

では、自分が従うべき感情とはどういうものなのか。それは、外部の雑音を遮断させ、自分と向き合った状態で発せられる感情であり、すなわちそれが「大いなる存在からの叡智」なのです。

古来からあらゆる宗教の教えの中で、また現代では「マインドフルネス」という名で、なんとビジネスの現場においてまで瞑想が推奨されるようになった理由は、それが自分を超えた「大いなる力の叡智」にアクセスするための通り道を開くからに他なりません。

そしてその「叡智」が、「従うべき」というよりは本能的にそれに「従ってみたい」という情熱(感情)として「湧いてくる」。実際には心の奥底では自分の本当の望みはすでにわかっているのですが、それが外部の雑音をシャットアウトすることによって、意識の表層に浮かび上がってくるということです。

しかし、その情熱(感情)はドキドキ・ワクワクとした高揚感とともに、どこか居心地の悪い感覚をもたらすことがあります。それは、その感情に従って行動に移す時に、自分の人生に変化がもたらされることに対する不安を理性が発しているからです。

理性は自分の頭の中に限定されるので、自分が理解できないことを受け入れることができません。だから理性は変化に抵抗し安定を求めます。

しかし、情熱は何かを変えようとする力です。だから自分の中に限定され、安定を求める理性と真っ向からぶつかる。これが高揚感と共に起こる居心地の悪い感覚の正体であり、「常識」や「社会通念」や自分に与えられている「社会的役割」を守ろうとする理性が強く働くと、それが行動を起こすための「カベ」として立ちはだかるのです。

しかし、自分が従いたいと本能的に感じている情熱(感情)の発信源が、実は自分ではなく大いなる力の「叡智」であるならば、今自分の目の前に現れている「カベ」は、それを乗り越えるために存在し、そして自分はそれを乗り越えられると考えることができる。

今の「常識」や「制度」が自分個人にとってだけではなく、社会全体にとって本当に完璧であるならば、そういう「カベ」が自分の前には出てきたりはしません。

変えるためには「誰かが」それを乗り超えていかないといけない。大いなる存在によってその「誰か」に自分が「指名」されたと考えることができれば、それを乗り越えることは決して自分のエゴではなく、社会全体のためになる。

なぜなら、その情熱の追求が、今の「常識」や「制度」に反し、仮に既存の人間関係に変化をもたらすようなものであったとしても、その行動は自分や身内だけの幸せを追求するエゴを超えているものだからです。

実は「指名」というのも、何も自分が他の人を差し置いて特別な存在として「指名」されているわけではありません。本当は全員が「指名」されているのですが、自分と向き合うことによってそれに「気づく」というだけのことです。

そして、気づいた瞬間に「指名」が「使命」に変わります。そして、その「使命」を実行するかどうかの選択の前に立つことになるのです。

<大いなる存在(神)はどうやって人間に語りかけてくるのか>
(注:ここで出てくる「わたし」とは著者ではなく「神」のこと)

神とのコミュニケーションは、言葉よりもすぐれた、言葉よりもずっと豊かで正確なものだからだ。言葉で語り合おうとすると、とたんに言葉のもつ制約にしばられることになる。だからこそ、わたしは言葉以外でもコミュニケートする。それどころか、言葉はめったに使わない。いちばん多いのは、感情を通じたコミュニケーションだ。

感情は魂の言語だ。

何かについて、自分にとっての真実を知りたいと思ったときには、自分がどう感じるかを探ってみればいい。

感情というものは、なかなか見つからない。自覚するのはさらにむずかしい。だが、最も深い感情のなかに、最も高い真実が隠されている。要はこの感情をつかむことだね。わたしは経験や感情、言葉をコミュニケーションの道具として使うが、経験や感情、言葉のすべてがわたしからのコミュニケーションだというわけではない。すべての感情や思考、経験、それに言葉が、わたしから発せられたものだとは限らない。

わたしの名で、べつの者がたくさんの言葉を口にしてきた。わたしとは無関係なものによって、たくさんの思考や感情が支えられ、その結果、たくさんの経験が生まれてきた。

神からのメッセージと、そうでないものとを見分けることは、なかなかむずかしい。この二つの違いはわかりにくい。区別するには、基本的なルールをすなおにあてはめなければならない。

わたしのメッセージはつねに、あなたの最高の考え、最もくもりのない思考、最も偉大な感情である。それ以外はべつの源から生じている。そう考えれば、簡単に区別できるだろう。どんなに未熟でも、いちばん気高く、くもりもなく、偉大なものはすぐにわかるからだ。

だが、念のために、もうひとつ指針を与えよう。
最高の考えには、必ず喜びがある。くもりのない言葉には真実が含まれている。最も偉大な感情、それは愛である。喜び、真実、愛。この3つは入れ替えることもできるし、互いにつながりあっている。順序は問題ではない。

どのメッセージがわたしのもので、どれがほかからのものかを見分ける指針がはっきりすれば、あとはわたしのメッセージに耳を傾けるかどうか、それだけだ。

すべてのひとは特別であり、すべての時は黄金である。他よりも特別なひと、特別な時というものはない。多くのひとは、神が特別な方法で、特別なひとにだけコミュニケートすると信じている。そのために、自分で神のメッセージを聞く責任はないと思っている。

ましてメッセージを受け取る責任(これは、ただ”聞く”とはべつのことだ)はないと考えて、いつもほかのひとの言葉ばかり聞いている。神の言葉は誰かほかのひとが聞いていると決めつけ、そのひとたちの言うことを聞いているのだ。

神の言葉を聞いたというひとたちの言うことを聞いていれば、自分で考える必要はなくなる。大半のひとがわたしのメッセージに背を向けている最大の理由は、そこにある。

自分自身が神のメッセージを受け取ったと認めれば、自分で考え、実行する責任が生じる。他人の解釈を受け入れているほうが(たとえその他人が2000年前の者であろうと)、いまこの瞬間にも受け取っているかもしれない神のメッセージを解釈しようと努力するより、はるかに楽で安全だ。

自分の感情に耳をすますことだ。自分の最高の考えに耳を傾けなさい。自分の経験に耳を傾けなさい。そのどれかが、教師に教えられたことや本で読んだことと違っていたら、言葉のほうを忘れなさい。言葉は真実の伝達手段として、いちばんあてにならない。

いちばん偉大な教師は外にいる者ではなく、あなたがたの心の声である。それが、わたしが使う第一の道具だ。

あなたがたの心の声は、わたしのいちばん大きな声だ。なぜなら、あなたがたにいちばん身近な声だから。心の声は、すべてについて、あなたがたの言葉で言えば、真実か偽りか、正しいか間違っているか、良いか悪いかを教えてくれる。それに従う気になりさえすれば、針路を決めるレーダー、船の舵、旅の道案内となる。

その声はたったいまも、あなたが読んでいるこの言葉が、愛の言葉か不安の言葉かを教えてくれるはずだ。この物差しを使えば、従うべき言葉か無視すべき言葉かわかるだろう。

まず、静かにすることだ。外の世界を静かにさせて、内側の世界が見えてくるようにしなさい。この内側を見る力、洞察力こそがあなたが求めるものだが、外部の現実に心をわずらわされていては決して得られない。だから、できるだけ内側へと入っていきなさい。内側へ入らないときには、内側から外の世界と向き合いなさい。つぎの箴言(しんげん)を忘れないようにして。

内側に入っていかなければ、からっぽで出ていけなかければならない。

このモットーを実感するために、一人称で繰り返してごらん。

「内側へ入っていかなければ、わたしはからっぽで出ていかなければならない」

あなたはこれまで、からっぽだった。だが、これからもそうである必要はないし、過去にだって違う在り方は出来た。あなたはどんなふうにでもなれる。できないこともないし、手に入れられないものもない。

何でも聞きなさい。何でもいい。工夫して答えよう。そのために、全宇宙を利用しよう。だから、注意していなさい。

決して、この本だけがわたしの唯一の道具ではない。質問をしたら、この本を置いてみることだ。そして、目を凝らしなさい。耳をすましなさい。つぎに聴く歌。つぎに読む記事。つぎに見る映画。つぎに出会うひとの言葉。つぎに聞く川や大洋の波の音、耳に触れるそよ風のささやき。

すべてがわたしの道具だ。すべての道がわたしに向かって続いている。あなたが耳を傾けるなら、話してあげる。あなたが招くなら、そばに行ってあげよう。そして、いつもそこにいたことを教えてあげよう。あらゆる方法で。

〜「神との対話(ニール・ドナルド・ウォルシュ)」より〜