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自分の最大限の可能性を開花させる力学

自分を大切にし、心に従うことこそが、実はまわりの人間に恵みをもたらす(自己愛の本当の意味とは)

まず何よりも自分のことを大切にする」とせっかく決意しても、残念ながらそこに「罪悪感」という大きなカベが立ちはだかります。

人生に変化がもたらされる不安以上に、この罪悪感こそが、心が気づいているはずの自分の本当の望み(使命・運命・自己実現)を追求する歩みに、二の足を踏ませることはよくあります。

「自分を犠牲にしてでも他人のために尽くす」ことを美徳とし、他人を差し置いて自分のことをまず第一に考えることを身勝手で利己的だとみなす価値観は、今でも私たちの意識に根強く残っています。

しかし、自分を犠牲にして他者へ尽くせば尽くすほど、その犠牲の対価としてそれ相応の見返りを心は求めてしまうのです。本来「人に尽くす行為」というのは、見返りを求めるものではないということが頭ではわかっているにもかかわらず。

この見返りを求めてしまうという制御できない心の動きは、実は置き去りにされてしまった自分自身の悲鳴に他なりません。自分と他人とは、どちらか一方ではなく両者をバランス良く大切しないといけないという心からの警告なのです。

本当の意味で「自分を大切にする」ということは、不満がありながらも変わらない日常を日々頑張っている自分に対して、スイーツや余暇を与えるといった、ちょっとしたご褒美のたぐいのものでありません。

そうではなくて、世間の「常識」や「社会通念」や課せられた「社会的役割」ではなく、心が気づいている本当の望み(使命・運命・自己実現)を果たすために人生を変えていきたいと思う「自分の情熱(心)を大切にする」ということなのです。

そして、その情熱の声に従って歩みを進めることによって感情(心)と理性(頭)の調和が生まれ、その結果自分の心が満たされる。自分が満たされれば、「見返りを求めること無く」他者に心から尽くすことができるようになる。

さらに、満たされることで自分にもたらされる内的平和の気が(それを「オーラ」と言ってもいいかもしれない)、何か特別な「行為」ではなくその「存在」そのものによって周りを癒やす源になる。

洋の東西を問わず、自己愛は、利己的でも身勝手でもなく、まわりの人間にも恵みをもたらすものであるとされている理由は、実はここにあるのです。

だから、自分を大切にすることに罪悪感を持つ必要などありません。

「規範」も「模範」も「常識」も、時代と場所が変われば変わります。

むしろ本当の意味で自分を大切にし、心(情熱)に従って自分の本当の望みを果たすことこそが、世界を明るくするカギであり、私たちに与えられている課題なのです。

『安全など、ほとんど迷信だ。そもそもそんなものは存在しない。人生は向こう見ずな冒険か、無かのどちらかだ。〜ヘレン・ケラー〜』

誰でも耳にしたことがあるように、自分を愛することができなければ、健全で、互いに支え合っていく関係を他の人間と築くことはできない。

自分自身を愛することを学ぶなかで、ほとんどの場合、人はナルシシズムの過程を体験する。社会のきまりや規範から自分を解放する段階だ。しかし、自己愛というものを、反発や、物質的な耽溺を通じて定義することでは満足できなくなるときがいずれやってくる。

そして、ほとんど当然の成り行きとして、自分をあるがままに愛し、受け入れはじめ、自分が愛というものをどう理解しているか、他者をどれだけ愛せるのかに直面するようになるのだ。そうすると、自分を大切にするということは、利己的な行為ではなく、必要な霊的課題なのだと信じられるだけの強さを、細胞の中に育むことができる。

自分を愛するということは、心の中からくるメッセージに耳を傾けることを意味している。心からやってくる導きは、自分が「心を込めて」できることだけをすることの重要性を語っている。心の気の支えがなければ、私たちは内面に対立を抱え、内なる望みの声を沈黙させようとしつづけることになってしまうのだ。

心にしたがうということは、自分をいちばん満たしてくれる道を歩むよう導いてくれる。が、心の声は、不安を呼ぶものである。私たちが頭で下した、合理的で快適な選択を脅かすことが多いからだ。

たとえば、ワークショップに参加した女性の多くは、自分の結婚のパートナーの選択は、あらがうことができないほど気持ちがひかれたり、肉体的な魅力を感じたりというよりも、その人が提供してくれる生活の安定のためだったと打ち明けた。そして、愛の感情が霧消してしまってからもずっとその相手と一緒にいるという判断も、やはり生活の安定の心配からだった。同じように、結婚生活を続けているのは、子供に対して感じる責任感からだと打ち明けた男性も何人かいた。

いうまでもなく、このようなきわめてむずかしい状況の中で、「心にしたがう」かどうかを決断するのは、人生で最も苦しい選択のひとつであろう。だが、真に霊的な観点、つまり、深い思索の場所からみれば、そのような状況にとどまることは、まわりに愛を与えることにはならず、逆に、悲しい、むなしさに満ちた心のエネルギーを発してしまうと気づくかもしれない。もしそうならば、その人は、はたしてそこを去るべきかどうかという決断に直面する。

自己愛の欠如は、感情面での調和がない状態を生む。自分との調和がとれていなければ、内面の静けさを手に入れることはなかなかできないだろう。心の言っていることに気づくために、何か特別なレッスンが必要な人はいない。だが、どんな場合であろうと、心の奥底にある気持ちというものは、人生を変えることを余儀なくしていく。

このため、心にしたがっていく勇気をどうすればもつことができるのかについては、何らかの導きが必要である。しかし、心の導きに耳を傾けなかったときの結果を考えてみてほしい。うつ状態、混乱、そして真の自分の道を進まずに、それを遠くから眺めているような、たまらない気持ち。

罪悪感も、自分を愛する気持ちを学ぶのを困難にすることがある。自分を頼っている人を差し置いて、自分自身のことを考えようとすると、人は罪の意識を覚えるからだ。もうこれまでのようにあなたのことを第一に考えるわけにはいかない、と言われて気分のいい人がいないだろうから、いったん決めたら、この新しく選んだ方針をしっかり守る強さをもたなくてはならない。

だが、東洋、西洋どちらの教えでも、自己愛は、実はまわりの人間にも恵みをもたらすものであるとされている。無条件の愛は、純粋な癒やしの力をもたらし、自分だけではなく、他者にもはたらきかけるものだ。許すこともたやすくなる。どれほど困難な関係であっても、慈しみの心でもってその人を見つめることができるようになる。自分を大切にする気持ちは、内面の静けさというすばらしい状態をまわりに伝えてくれるのだ。

私たちは内面にある情熱を目覚めさせることができる。自分の才能を解き放ち、異なった人生を歩んでみたいという情熱だ。この情熱があれば、自分の真実を受け入れて、いまの生き方では不幸なのかもしれないということに気づく。情熱は論理や秩序を嫌い、危険と隣り合わせになることを好むからだ。人生への情熱を持つことこそ、自由になる、自己愛をもつということの本当の意味なのである。
〜「チャクラを生きる(キャロライン・メイス)」より〜